時折、某SNSでは自殺の話題がトレンドになることがある。
自殺が発生してしまうというのは、この社会が少なからず歪んでいることの証左であると私は思っている。
しかし、何よりも歪んでいるのは、この社会を生きている人間なのではないかと疑いたくなることがある。
今回は、そんなことを語ってみたいと思う。
無修正の自殺現場画像を平気でアップする人間
最近は自殺がトレンドになっていると、平気で現場の画像が無修正でアップロードされていることが非常に多く見られる。
野次馬根性を出してその写真を撮影してSNSにアップして、それでもって注目を集めたり「バズ」ったりを狙うという魂胆があるのかは分からない。そうした人間は往々にして性根が腐っていて、配慮の欠片も無い屑と言っても差し支えがないくらいには、酷い場合ばかりである。
面白半分なのか、物見遊山的なのか、珍しいものを拝めてラッキーということなのだろうか?いずれにしろ、そういうことを平気でする人間は、ろくでもないトチ狂った人間であることは間違いなさそうである。
勘違いな正義を振りかざす人間
SNSでは、上記のような狂った人間を晒し上げたり、自殺についての持論を求められてもいないのに押し付けがましく垂れ流し始めたりなど、これまた勘違いな正義を勝手に振りかざす輩も存在している。
例えば、無修正の自殺現場画像を上げているアカウントの様子を、これまた無修正の画像と共に晒し上げているアカウントをいくつも見かけた。彼らは彼らなりの正義のもとで、その晒し行為を実行したのだろう。
しかし、ともすれば見た人に多大な衝撃を与え、精神を不安定にさせかねない画像を拡散させているという点において、彼らは自らが晒し上げた人間と同類であるのだ。
だから「勘違い正義野郎」なのである。しかも彼ら自身はそのことに気が付いていなかったり、自分が正しいと思い込んでいるものだから、なおのこと質が悪い。
また、自殺における、それぞれの勝手な考えに基づく正義が、SNSでは醜くぶつかり合うことも多々ある。
「人の迷惑を考えろ」「自殺するなら人がいないところでやれ」「アピールだろ」
こうした心無い「正義」に賛同する人間が集まる光景を見ると、どこか狂気的なものを感じずにはいられない。加えて、他者を思いやることができない人間に溢れている、冷たくて偏狭で息苦しい社会が、そこに存在しているようにも見えた。
なぜその人は自殺という選択をしたのか?どうしてその場所で死ぬことを選んだのか?
その背景には何が考えられるのか?原因の根幹を無くすにはどうすればいいのか?
本来議論されるべきは、こうしたことではないのか?と私は思う。その人が自殺に追い込まれてしまった要因を探って、そこから社会のおかしい部分を見つけ出して修正するというのが、私たちのあるべき姿ではないだろうか。
わざわざトレンドに乗っかってきて別の画像を載せる人間
自殺のトレンドに決まって現れるのが、「自殺の画像が出回っているので、癒しとして猫の画像置いておきますね」などとのたまって、平然とトレンドに乗っかってくる奴だ。
正直、私には理解しがたい行為だ。
確かに、自殺のトレンドにアクセスして、不幸にもショッキングな画像を見てしまった人の心を癒したり、紛らわしには丁度いいのかもしれない。それで救われる人もいるのだろう。
しかし、なぜわざわざトレンドに乗っかってまでそれをやるのだろうか。多くの人間にそうした「癒し」を提供する目的のためにトレンドワードを盛り込まれると、持ち上げられて余計に凄惨なものが注目されることとなるのにも関わらず、である。
そうした人たちの目的は、本当に「癒し」を届けるためなのだろうか?
私としては、人の死に便乗してインプレッション数、いいね、RTを稼ぐ目的でやっているようにしか感じられなかった。単に私が気に入らないだけといえば、そうなのであるが。
こんなことを言ったところで、一人二人が辞めた程度では、どちらにしろトレンドの持ち上がりなど抑えられようもないのだろうから、もしかしなくても言うだけ無駄なのかもしれない。
ネットの反応で日本人のたかが知れる
自殺を巡るコメントや呟きなどを見ていると、何とも心無いものが多くていたたまれない。それぞれが自分に都合のいいように、好き勝手言い散らしている光景がネット上では広がっているばかりである。
寛容ではないというか、全く人にやさしくない、余裕なんてこれっぽっちも見られない窮屈な社会が、そこに凝縮されているようである。
日本人とは、かくも心無き不寛容な人種であるのかと思うと、たかが知れてしまったなと私は思わずにはいられなかった。
最後に、とある風刺アニメを紹介しておく。現代社会における問題、とりわけスマホについて風刺したものである。当該動画の2分30秒あたりから、自殺の風刺が描かれている。
これを見て、自殺現場を面白がって撮影したり、それをSNSに載せて拡散する人間が、何かを感じ取ってくれやしないかと願うばかりだ。