「死にたい」「消えたい」「生きていたくない」
今ここを読んでいるあなたが実際にそう思っているのかは、私には知ることができない。もしそうだとしても、残念ながらあなたの問題を解決できる情報をここで提示することは無い。
ただ、その思いを私も抱えていたことがあるし、今でも抱え続けている。そんな私が、どうも妙な違和感を感じたことについて書いておく。
なお、自殺を推奨する意図は一切ないということだけは、お断りしておきたい。
苦しみを抱えた人間が求めるのは「共感」であって「解決方法」ではない
私がかつて生きることに苦しみを感じていたときは、毎日のように「死にたい」「消えたい」「生きていたくない」などというワードで検索していたのを覚えている。
そこに表示されるのは、例えば「死にたいと思ったときにするべきこと」とか「死にたい人が楽になるためのマインド」とかの類が、検索上位のほとんどを占めていたと思う(今現在でも検索表示に変わりはないと思われる)。
しかし私は自分の苦しくてつらい気持ちを、ただ誰かに共感してほしかった、認めてほしかったのだった。求めていたのはそういうことであり、「解決方法」なんて求めてはいなかった。
言い方は悪いけれども、同じような仲間を探して傷を舐めあいたかったということになる。苦しいのは自分だけではないと、同じように苦しんでいる人がいるということを確認すること、そうした集団に属することでで寂しさを紛らわせたかった。
検索に出るのは解決方法ばかり
「つらい、苦しい、楽になりたい。」
そんなことばかりを考えて検索結果を眺める日々というのは、生きている苦しさを助長させただけだった。
どこもかしこのサイトも、提示してくるのは解決方法ばかり。そんなものは求めていなかった。必要じゃなかった。それでも、検索結果はそれを押し付けてくるようで、まるで生きることを強制されていたようだった。
どうして、死を考えさせてくれないのだろうか?
私は生きる苦しさに加えて、死という情報に至れない状況にさらなる苦痛を感じた。
「死」を隠し否定するディストピア
「死」という情報をどうしてこうも規制して隠したがるのだろうかと、私は不思議でならなかった。生きることが苦痛な人間にとっては、死こそが最大の救いであるにもかかわらず、である。
そんな「死」を否定して、生きることこそがしあわせだという価値観を押し付けてくるこの世界は、まるでディストピアのようにも感じられた。そんな閉塞した世界が息苦しくて仕方なかった。
だからこそ「いのちの電話」が設置されているのかもしれないが、もっと気軽に「死」について語れる場所があってもいいのではないか?
「死」を禁忌的なもの、不浄なもの扱って遠ざけるのは間違っているように思う。それであるから、「死」についてしっかりと向き合えなくなって、そうした思いを抱えた人たちが更なる苦しい思いに蝕まれるのではないかと、そう思うのである。