投資と人生の夢うつつ

元ニート、フリーター、現IT派遣の20代半ばの人間による、投資や生活、その他雑多な話題を書くブログです。

心理検査の結果、言語理解凸で知覚理解凹だった。

f:id:hitohira_ipen:20191223123918j:plain

 

年が明ける前、メンタルクリニックで検査を受けてきた。検査ということで何をするのかと身構えていたら、WAIS検査だった。

 

実は以前に別のメンタルクリニックに行っていたときに、同様のものをやったことがある。一応今回はそのときとバージョンが違っているし、受けているときの状況もまた違う。そういう意味で、また改めてやったことで、以前の自分と何か変化したものがあるかを確かめるのには丁度良かったと思っている。

 

年が明けた最初の受診で、その検査の結果を受け取ってきた。

以下、その報告になる。

 

 

 

WAIS検査とは

f:id:hitohira_ipen:20191223123930j:plain

 

「WAIS?何それ?」とあなたは思っただろうか?

精神科などの世話になったことが無い人は、恐らく知らなくて当然だろう。

 

WAIS(ウェイス)検査とは、一言でいえば知能を測定するための検査である。*1

この検査をすることによって、自分はどんなことを得意としているのか、逆にどんなことを不得手としているのかを判別することができる。それが自分の生きづらさの要因を探るヒントとなったり、自分の生活環境を改善させる一つの指針ともなったりするのである。

 

知能の測定にあたっては、

 

  • 言語理解
  • 知覚理解
  • ワーキングメモリ
  • 処理速度

 

の4つの観点と、それらを総合したものが評価の対象となっている。

 

f:id:hitohira_ipen:20191223123815j:plain

 

念ため注意をしておくと、

スコアが高いほど優れているから優秀、低いほど劣っているから無能、という話ではない。

また、他人と比べて自分はどうこうという話でもない。

 

自分の能力を目に見える形として表すことで、自分の適性を知るととともに、どのような環境だったらストレスなどを受けずに生きることができるのか、ということを考えるにあたっての判断材料の一つにしてみよう、という話である。

 

加えて、自分の能力がどの程度なのかということで、どうしても全体の平均と比べなければならない場合もあるが、そのことをもってして「優秀」「劣等」などと価値を付けるものではないことも強調しておきたい。

 

 

言語理解

f:id:hitohira_ipen:20191223123614j:plain

 

単語の理解に関して、私は平均よりも頭一つ、いや頭三つ分くらいは突出して高かった。

日々、語句を扱うにあたっては、誤解を招かないよう使い方に細心の注意を払ったり、正しい意味内容で用いるということを普段から意識していることが、大きく影響したのだと思う。

 

そういう固定的なものに関しては強いのだが、これが流動的になると私はかなり弱くなるらしかった。

要は、会話などから相手の意図をくみ取れなかったり誤解したりで、コミュニケーションにズレが生じて、それが摩擦となりストレスとなる…といった具合だろうか。

 

f:id:hitohira_ipen:20191223124023j:plain

 

実際、文章のみでのやり取りが基本となるインターネット、ことSNSにおいて、発言者のその発言の意図や真意が理解できなかったり、ということが多々ある。ネット上、特に不特定多数がやりとりをするSNSでは、そういう場合でも無視をすれば、こちらがストレスになることは無いと思われる。

 

しかし、現実で対面してやり取りをする場合だと、様々な要素や状況も影響してくるだろうが、基本的にやりとりの無視はできない。そんなことをしていたら、相手の心証を悪くしてしまう。最悪、相手に溜められていらものをぶつけられて、加速度的にストレスが増してしまう。そして私はストレスで死ぬ。リアルでの対人折衝は難儀である。

 

 

知覚理解

f:id:hitohira_ipen:20191223124140j:plain

 

複雑ではない簡単な図形を見て、それを理解することやそこに何らかの法則を見出すことについては特に問題は見られなかった。つまりその点は平均的である。

 

ただ、空間性の認知というような、非言語の理解を必要とすることが大変に不得手となっている。実際、積み木で模様を完成させる課題をやったら、複雑なものだと、どこをどうすれば完成させられるのかが思い浮かばなくて、それで手が止まって時間切れとなった。

 

私の場合、目だけで見て、どうのこうのと察したり判断したりがとても苦手である。

言葉が絡まないことをやろうとすると、私は壊滅的になるということだ。

 

 

ワーキングメモリ

f:id:hitohira_ipen:20191223124522j:plain

 

耳で聞いた情報を短期記憶したり処理することが不得手となっている。実際、何の法則性も無い適当な数字を言われても、ごく簡単なもの以外は覚えていられなかった。

 

それに、複雑な情報を耳だけで聞いて処理するとなると、思考が追い付かなくて考えることを放棄してしまうので、お手上げ状態となる。

つまり、「は?何言ってんの?」「何が言いたいの?」「どういうこと?」「いっぺんに色々言わないでくれる?」「短く端的に話してよ」と、私はなるわけである。

 

そもそもの私の脳みそがネットワーク過剰(=すでに情報がいっぱい詰まっている)なつくりをしているため、新しい情報が外部から入ることのできる余地が、最初からほとんどないことが原因かもしれない。

 

 

処理速度

f:id:hitohira_ipen:20191223124043j:plain

 

目と手を連動させて素早く動作させるということについては、大きな不足がないものの、それでも平均と比較するとやや遅めの部類ということだった。だから、恐らく世間一般の人と比べた場合、私の作業スピードは少し遅いということになる。

 

何かを手本に見ながら作業するとなると、自分のやっていることが間違っていないか毎度確認をして手が止まってしまうことが多いと自覚している。それに、私の脳みそは常にネットワーク過剰で情報を多く受け取れない性質であるし、加えて情報を処理するのに遅れがあることも、その要因になっているのかもしれない。

 

間違えを起こさないように慎重にやっていると言えば、聞こえは良いかもしれない。

しかし、作業スピードが重視される場合だと、それでも正確性を重視してついていけなくなるか、正確性を放棄してスピードを確保するかの二択になるだろうと思った。

 

スピードを確保しつつ正確性も損なわずに何かをやるというのは、一つのことにしか注力できない私には難しい。つまるところ、二つ以上のものごとを同時に成立させられるほど、私は器用な人間ではないというわけだ。

 

スピードと正確性という話だけではなく、同時並行的にものごとを進めようとしても、手が遅くなって効率が悪くなり、それで成果を出せなくて失敗する可能性が常人のそれよりも高いということにもなるのだと思う。

私の場合は、何かをやるときは一点集中が望ましいといったところだろうか。

 

 

全体的な評価

f:id:hitohira_ipen:20191223124744j:plain

 

全能力を総合して知能を評価した場合、私は平均よりやや下の部類だった(平均を100としたら、私は90くらいの位置)。

ただ、私の場合は突出して高いものと低いものの差がかなり大きいため、平均はそこまで意味を成さないとの説明だった。

 

言うなれば私は、言語理解凸・知覚理解凹という部類にあたる。

言語が突出しているが、知覚がガクッと下がっているために、その差があまりにも大きくなってしまっている。つまり、得意なことから見ると、苦手なことが際立ってしまっているということだ。

 

しかし、苦手な分野では、言語による能力がその不足を補う形で働いているとのことだった。であるから、私は言葉による明確な説明が得られる環境であれば、不得意なことをして生きること、それで多大なストレスを抱えることも無さそうである。

 

ちなみに、この検査を受けている最中に大きな音がして、それに気を取られて集中を乱されたことが報告で指摘された。自分でも音はよく気になるなと感じていたが、自分が思っていた以上に音に敏感で影響を受けているということが判明した。

 

音が気になったことについて「嫌なものは嫌と遠慮なく言ってくださいね」とも言われた。しかしどうにもそれは「なんで嫌だと言わないの?バカなの?」と暗に自分を責めていたように感じられて(当然向こうにそうした意図は無いだろうが)、それで自分を否定されていたようで、嫌でたまらなくて泣きたくなった。

 

f:id:hitohira_ipen:20191223124431j:plain

 

その不快を表明しなかった点や、そういうことを主張できるようにすれば改善も期待できると報告でも指摘されていた。

ただ、私がそういうことを最初から表明できる人間であれば、今のつらい思いはしていないし、メンタルクリニックにも世話にならないだろというのが正直な感想だった。

 

上手いこと表現ができないのだが、どうにもその辺りの認識が私とクリニック側とでかみ合っていないような感覚がして、若干の不信感が出てきてしまった。

というよりも、私がそのことをしっかりと話すことができたなら、そんな不信感なんてでなかっただろう。話したいと思うことが結局話せなくて、終わってから振り返って後悔をするの繰り返しをしている。

 

きっと、自分を理解してもらおうということを、どこか諦めているのかもしれない。

そういうちょっとした「ズレ」を、ここでも感じたのだった。