神社に行ったとき、あなたはお参りをする人であろうか?もしお参りをするのであれば、「~になれますように」「~でありますように」と参拝しているだろうか?
こと年末年始に至っては、年越し参りや初詣ということで神社に参拝する人が多いことだろう。
気になるのは、上記のように「~になれますように」「~でありますように」といった様子で、自らの思いが成就するように参拝することだ。
どうにも、これは他力本願が過ぎないか?と私は思ってしまう。
確かに、自分ではどうにもならないこと、できそうにないことがそうなるように祈るのは間違っていないだろう。
例えば、自分以外の大事な人の無病息災を祈ることがそうである。細かなことを言えば一応コントロールはできるのかもしれないが、究極的には自分のことではないのでコントロールの仕様がないといえばない。それが思う通りになりますように、と願うのは理にかなっていると言える。
しかし、自分がやるべきこと、自分が為すべきことを「~になれますように」「~でありますように」と願うのはおかしくないか?と言いたくなる。やるのはそれを願う自分自身であって、神ではないのだ。そこをはき違えてはいないか?ということである。
例えば、〇〇大学に合格したいという目標があったとする。試験本番で出題される問題などの「自分ではどうにもできない部分」はあるにしろ、第一義的には本人が勉強や対策を重ねて合格という目標を実現させるものである。その第一義的な努力を放棄して「合格しますように」などと願うのが筋違いであって、他力本願が過ぎるのだ。
目標の実現のためにしなければならない苦労を避けて、楽な思いをして願いを叶えよう(この場合は叶ってほしいと表現するのが正確かもしれない)などというのはおこがましいことである。
そんな浅い考えでいる人間には、願いなど到底実現できるはずもないだろう。仮に願いが相成ったとしても、真に努力をして実現させた人間には、遠く及ばないものである。