投資と人生の夢うつつ

元ニート、フリーター、現IT派遣の20代半ばの人間による、投資や生活、その他雑多な話題を書くブログです。

このブログの役割と存在意義を今一度確認した結果、原点回帰を果たしたのだった。

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少し、ブログを書き綴る意味を見失いそうになっている。

 

私は何のために文章を書き綴るのか?これは誰のためのブログなのか?このブログの存在意義とは何だ?何を書けばいい?どうしてブログを書くのが苦しい?

 

そういうことが、最近どうしても頭から離れなかった。だから、どうしてもこのブログのことを確認したくなった。

 

そうして思い出したのは、原初の思いだった。

 

 

 

 

何故私はブログを始めた?

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ブログ開設当初、私は新卒入社した会社を辞めようかどうか、最後の決断が下せずにいた。同時に仕事や生活、心身のストレスも相当溜まっていた。私はとにかく苦しくて、つらくて、死にそうだった。下手をすればこの手で自らの命を終わらせていたくらいには、限界だった。

 

私は溜まったストレスを上手く流す術を持っていなかった。ストレスを流すのが下手だし要領も悪い不器用者だから、ストレス解消などできようもなかった。一方的にストレスを溜め込むしかなかった。

 

現実で誰かに話そうにも、話を聞いてくれた人をダークサイドに引きずり込んでしまうような気がして、とてもできなかった。私の心の闇に触れた人が、心を病んでしまうなんてことになったら、私は絶対に罪悪感を抱く。

 

他人を不幸にしてまで、自分が救われたいとは思わない。それだったらずっと自分一人が、不幸をせき止めているほうが何百倍もましだ。

 

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そういうわけで、最初は適当なノートや紙に愚痴や不満をひたすらに書き殴っていた。それでスッキリしていたが、段々と自分の思いを誰かにも知ってもらいたいと思い、Twitterでも愚痴り始めた。

 

ただ、Twitterアカウントはその当時は一つしかもっていなかった。本来的には絵を上げるためのものだったので、そういうのを求めてる人にとってみれば愚痴ツイートは見たくないのかもしれない。それにTwitterは呟いてもすぐに流されてしまうし、文字制限もあるから思いを書き切れない。

 

だったらいっそ、適当にブログを作って、誰の目も気にせずそこに愚痴をまとめて書けばいい。それに過去の自分を見返したくなったとき、Twitterよりは簡単に見返すこともできる。そう思って、このブログを始めた。

 

 

このブログは誰のためにある?

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始めたきっかけを考えれば、ブログは私だけのためにあると言っていい。本来的には、ここは何の価値も無い、愚痴まみれの「チラシの裏」になるはずのブログだったのだから。

 

しかし人間は孤独を強く感じると、誰かと触れ合いたくなる生き物だ。私も例にもれず、とうとう退職エントリー記事をTwitterで宣伝した。ずっと0だったPVが、宣伝したことでほんの少しPVが伸びた。

 

そこから、自分の苦しみやつらさの経験が誰かの役に立てないか?ということを考え出した。自分本位なブログが、同じように苦しんでいる人の救いになることを目指した瞬間であった。

 

だけれども、「誰かのために自分が犠牲になる」生き方をしていた私は、「誰かの役に立つ」ことをするたびに「自分がないがしろにされている」と強く思うのだった。

 

ブログも例外ではなかった。

 

誰かの役に立つための記事を書くのはいい。だが、それで自分が苦しくなっていたら全く報われないと、私は思い始めた。そもそもブログを始めたのが「自分のつらさを吐き出してすっきりする」ためなのに、ブログでつらさを溜めては本末転倒もいいところだ。

 

だから、私は決めた。

 

誰かの役に立ちたいときはそうする。

 

他人なんてどうでもいいと思うときは、とことん独りよがりになる。

 

このブログは、自分のためだ。

 

このブログの存在意義は何だ?

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私にとってこのブログは、「私という人間が生きた証拠記録」であると同時に「チラシの裏」である。

 

生きる中で、私が見たこと・経験したこと・起こったこと、それらについて思ったこと・感じたこと・考えたことを記録して残すためのツールなのだ。それはとりもなおさず、独りよがりで主観や偏見や誤解にまみれて何の参考にも役にも立たないことを表す。

 

はっきり言って、ゴミとガラクタの山でしかないし、こんなものに期待をされたくないという意味も込めて「チラシの裏」なのだ。

 

このゴミやガラクタの山から、何を見つけ出すかは訪れた人次第だ。「役に立つもの」を見つける人もいれば、「ゴミやガラクタしか見当たらない」と思う人もいるだろう。なんなら、ここのガラクタで暇な時間を潰して遊ぶ人もいるかもしれない。

 

このブログとは、そういうものだ。読む価値を見出すか見出さないかなんて、私が決められることではない。訪れた人が判断するものなのだ。

 

www.yume-ututu.work

 

一番初めのブログ記事を見返すと、 本当に投げやりで、好き勝手し放題な開設の挨拶をしている。まったくひどいものだけれども、これが、これこそが忘れていたことなのだと思った。

 

期せずして、このブログは原点回帰を果たしたのだった。