どうも皆さま。
少々、ふと思うことがありましたのでそれを書き綴る次第です。
それは、私が仕事を辞めるという話を職場のパートさんにしたときのことです。
翌日の広告の品の鶏肉を切っている作業の片手間にお話をしました。
パートさんは女性の方で、何人かお子さんがいて既に社会に出ているそうで、お子さんの話から私の退職の話につながった…というより、私が半ば無理やり退職のことに話題を転換させたような感じになりましたが。
そんな会話の中で、記憶に強く残っている言葉が二つあります。
それは、「みんなそうだよ」と「幸せなんだよ」の二つです。
当時とても苦しかった私にとっては、これらの言葉は励ましになるどころか、私の気持ちを理解してくれなかったような、追い打ちを食らわせられた気分になりました。
これらの言葉について、私なりに思うところや解釈したものを書き記します。
もし、こうした言葉を投げかけられて「つらい」と感じている方の一助になれば幸いですし、身近に苦しんでいる誰かがいるという方にも参考になれば幸いです。
「みんなそうだよ」という言葉
私が退職をする理由として話したのが、「ほぼ毎日10時間11時間働いて、仕事が終わって家に帰ったら疲れて寝て、起きてご飯食べてお風呂に入って、朝早いからすぐにまた寝るの繰り返しがつらい」ということでした。
それに対して返された言葉が、上記にある通り「みんなそうだよ」でした。
「みんなそうだよ」の表の意味は、励まし。
そのパートの方は、私の勤めていた職場に来る前は、銀行員をしていたそうです。
銀行って、業務が終わるとお金を数えるとのことで、1円でも合わないとずっと残らないといけなくて、遅い時間まで家に帰れなかったこともあると話していました。
その話を聞いたのと、元々のそのパートの方の人となりから考えると、「みんなそうだよ」という言葉には、「苦しんでいるのはあなた一人だけではない。誰もがそうしたことで悩んで苦しんでいるから、そう思うのはおかしいことではない。」という励ましの意味があったのだろうと、そう思います。
「みんなそうだよ」の裏の意味は、呪縛。
一方で、上記の言葉を言われたときに私が思ったのはこうでした。
「それって、みんなそうやって苦しんでいるのだから、私がその苦しみから抜け出そうとすることは許されないってこと?」
「みんな苦しんでいる中、一人だけ楽になることはいけないということ?」
同じように、そのパートの方の人となりを考えると、決して私を苦しめたくて言ったものではなく、むしろ私が先ほど述べたような感じで励まそうとしてのことだと思います。
ですが、善意のつもりが無自覚な悪意となったものが、苦しんでいる人の心をさらに傷つけ、追い込んでいるのだと、言っている本人たちは知る由もないのだろうと、強く思わざるを得ませんでした。
まあ「無自覚」という時点で、本人が自覚する余地なんてありませんし、もしも向こうが善意のつもりでということでしたら、非常にたちが悪いです。なんたって、悪いことを言っていると思っていないわけですからね。
ともあれ、こうして裏の意味を考えると、「みんなそうだよ」という言葉は苦しんでいる人を縛り付けて逃げられなくする、一種の「呪縛」にもなります。
もしも聞いていて辛さが増すようでしたら、それはきっと、あなたが同調圧力にまみれ、苦しみと欺瞞に満ちたこの社会を違う視点から見ることができるようになったということなのです。
別にみんなと違ってたっていいのです。みんな同じな社会なんて、とんでもなく気持ち悪いですから。
2.「幸せなんだよ」という言葉
同じくして、仕事を辞めたらどうするのか、次の就職先は決まっているのかと今後のことを訊かれました。
まあ、そういうことを尋ねられるのは当然でしょうから、別に悪びれることなく私は答えました。
「アニメとかのサブカルチャーが好きなので、作品がつくりたい」と。
そうしたら、「じゃあそういう専門学校とか行くの?」とパートの方が再び訊いてきましたが、私は「行かないです」とはっきり答えました。
「まあ、そういうところ出たって、そういう仕事に就けるわけじゃないからね。お金もかかるし」とパートの方が言い、そのうちに話は学校の話題に。
大学に通って卒業した私のことを、パートの方は「幸せなんだよ」と言ってきたのが、深く心に残っています。
「幸せなんだよ」の表の意味は、当たり前に感じていた、恵まれた環境への気づきを与えてくれること。
そのパートの方曰く、「うちの子たちは高校までしか通わせてない」そうで、大学まで通わせてくれて学費も払ってくれた両親が私にはいること、それがきっと恵まれている環境ということで「幸せなんだよ」という言葉で表現したのだと思います。
確かに、それはそうだと思いました。
私はこのご時世大学を出ることは当たり前のことだと完全に思っていましたから、大学に行っていたことが恵まれているなんてちっとも感じていませんでした。
職場にはお金が無くて大学へ行けなかったということで、高卒の学歴の先輩もいました。「うちにお金が無かったからねー」と明るい調子で言っていましたが、少し羨ましそうな感じも帯びていました。
当たり前だと思っていたものが当たり前ではない、そのことに気が付けたのはこの言葉があってのことでした。
「幸せなんだよ」の裏の意味は、押しつけ。
一方で、私はこうも思いました。
「別に自分から望んで大学に行ったわけではない。大学に行かないと両親がうるさくて嫌だから、ただ言うことに従って行っただけ。」
「そこまで幸せとも思えなかったことを、幸せと思えということなのか?それはまるで、幸福は義務だというディストピアじみた考えみたいだし、押しつけではないのか?」
見る人が見ればきっとお怒りの言葉が飛んできそうですが、これが私の中にあった素直な思いです。
私は大学では法律を専攻していましたが、正直興味が持てなくて面白くなかっし、そうした知識が生かされる仕事に就くことも考えていませんでした。
本当に興味があった授業というのも片手で数えるくらいしかなかったので、卒業に必須な分の単位は確保して、あとはサークル活動に精を出すくらいの大学生活でした。
サークル活動が楽しくてそれが生きがいになったのが救いで、それが無ければ空虚な4年間を過ごしていたのかもしれないと思うと、完全に幸せとも言えないし、実際のところは幸せ半分の虚しさ半分といった具合でしょうか。
こうした事情を知らないとはいえ、大学に行ったことを「幸せなんだよ」と言われても、自分が幸せでないと思っていても幸せと思わなくてはいけないような、押し付けられる感じがしてとても嫌でした。
少し話が脇にそれますが、だったら事情を話せば良かったのではないかと思われるかもしれません。
この話をしたときは退職がもう近かったこと、退職まで仕事を耐えることで精一杯だったこと、話したところでどうせ理解されないだろうと最初から諦めていたことがあって、私は話す気になれませんでした。
最後に~苦しんでいる人に、言葉は不要。
苦しんでいる人に言葉を届けても、元気になるどころかますます苦しめる結果になってしまいます。
多くしゃべらず、変に励まさず、そのままを受け止める。
それだけで、苦しんでいる人は楽になります。
逆にそれをしないと、苦しんでいる人は心をどんどんと閉ざしていってしまい、孤独となってしまいます。
私は苦しいときに、誰も自分の気持ちを受け止めてくれないと思ったそのときから、心を閉ざして孤独となり、長い間悲しい思いを抱えました。
そのつらさを味わう人が、一人でも少なくなることを願っています。