正月の三が日のとある日に、私は母方の実家に日帰りながら帰省をした。最近、都会は薄汚れていて窮屈な場所だと思い始めた。そんな都会に漂っている空気も、どこか淀んでいてすっきりとしていないようにも感じられた。
そんなことを真剣に考えながら触れた田舎の空気は、都会のそれとは違ってとても澄んでいるように強く感じた。漂ってくる土のにおい、くさい肥料のにおい、どこかで野焼きか何かをしているであろう煙のにおい。それらの匂いにどこか懐かしさを覚えて、涙が出そうにもなった。
「田舎」とは表現しているものの、そこはコンビニやそれなりに大きなショッピングモールもそう遠くない場所にあるので、生活に困るというほどの場所でもない。
ただ、うちの田舎の家にたどり着く道の途中にある、精米機が撤去されていた光景を目にした。その話をすると、田舎では米を作っていてそれを精米して食べているということで、そこではなくまた別の精米ができるところに行かなければならなくなったということを聞けた。
田舎だから、そこに行くまで距離があるし、米は重くて運べないので車がやっぱり必須だよねという流れにもなった。10キロ20キロとか平気でする米を自転車で持ち運びするなんて、若くてもきついものがある。ましてやお年寄りにはもっときつい、というか無理だろう。
それでもって、車はガソリン・車検・税金など、何かと金がかかる金食い虫であることは有名だ。田舎は概して、給料が都会と比べて低くなりがちだ。家賃などが抑えられても、車関係で結局出費がかさむのだから良くて差し引きゼロ、悪いとワーキングプアに陥るのではないだろうか。
さりとて都会で働く場合は、ほとんど毎日を朝の満員電車でストレスと共に揺られて出社し、8時間にわたる仕事を1時間の休憩と共にこなして、帰る頃にはクタクタになる。そして帰りの電車で疲労とストレスと我が身を乗せて帰る生活が待っている。場合によっては残業で遅くまで労働して、心身ともに疲弊していくばかりの生き方も待ち受けている。
高賃金を求めて都会で職を得て生きたところで、とんでもないストレス社会に身を投じて、あらゆるものを擦り減らすばかりではないかと、そう思わずにはいられない。
田舎で生きるも地獄、都会で生きるも地獄。
一億総ストレス社会、一億総貧困社会———現在の日本とその状況について、いつからかそう表現されるようになった。日本という国で生きている国民が、ストレスにまみれながら、低賃金にあえぎながら生きていかざるを得ない状況というのは、はっきりいって異常そのものだ。
日本は仮にも先進国である以上、物質的には満たされているのかもしれない。
だが人の心はどうだ。こんな状況でも豊かで満ち足りていると言えるのだろうか?
日本は、先進国の中でも自殺がトップレベルに多い国であることは有名な話である。*1
様々な要因はあるにしろ、その根幹を成しているのは今の社会状況であることに間違いは無いように感じられる。
年が明けて、これから令和の時代が本格的に始まる。都会でも田舎でも生きづらくなっているこの国、この社会を、私はこれからを生きる人間として、変えていかなければならない。*2今回の日帰り帰省で、そう強く感じたのだった。
*1:参考:図録▽自殺率の国際比較⇒https://honkawa2.sakura.ne.jp/2770.html
*2:その決意を詳しく書き記したのがこちら⇒2020年の活動指針は、社会的に弱い立ち位置の人に寄り添い、そして社会のはみ出し者として社会を観察し続け、時に異を唱えることに決めた。