投資と人生の夢うつつ

元ニート、フリーター、現IT派遣の20代半ばの人間による、投資や生活、その他雑多な話題を書くブログです。

大学でクリエイティブに目覚めるも、現実にあっさりと心を殺された人間の話。

f:id:hitohira_ipen:20191223124033j:plain

 

私はかつて、描いたイラストをTwitterで投稿していた。

 

今のTwitterアカウントをつくる前の、イラスト用にしたアカウントでそれをやっていた。ただ、イラスト用のほうは運用維持が面倒で手間になったのと、TLを見ているだけでメンタルブレイクをしそうになるレベルでイラストが嫌になった関係で削除した。私はその世界から逃げだしたのだった。

 

それでも、私はまたイラストを描いている。そんな私が、イラスト、ひいてはクリエイティブな世界に目覚めた経緯について、話してみようと思う。

 

 

 

きっかけは、大学でのサークル活動

f:id:hitohira_ipen:20191223124245j:plain

 

私がイラストを本格的に描き始めたきっかけは、大学時代のサークル活動の影響だ。

 

私は某大学のアニメーション研究会に所属していた。そこではアニメの自主制作をしていた。それだけではなく、イラストも時々描いていた。結構真面目に制作に精を出すサークルだったので、やる気がない人は必然的に部室に居場所がなかった。それで顔を出さなくなった人は自ずと消えていくという、そういう環境だった。

 

言わば私のサークルはそこそこの「ガチ制作会」であったので、「アニメを見てのんびりゆったりするサークル」だと思って、ゆるふわな気持ちで入ってきた人間は淘汰されるわけである。実際、サークルに入会した(入会希望の)新入生には、最低でも50枚の作画を描いて「しりとりアニメ」を制作するという課題が与えられるのであった。この時点で大多数の新入生は消えていき、残るのはある意味で精鋭の人間たちであった。

 

しかし、本格的にアニメ制作に入ってから生き残ったのが、真の精鋭たちであった。

割とガチな制作なので

  • 脚本
  • 絵コンテ
  • 演出
  • 監督
  • キャラクターデザイン
  • 作画監督
  • 原画
  • 動画
  • 彩色
  • 撮影
  • 音響
  • アフレコ
  • 編集

などなど、各人の担当や作業といった割り振りが、しっかりと決められる場所だった。

何なら、作業進行表による制作管理も行っていたくらいだ。

 

f:id:hitohira_ipen:20191223124023j:plain

 

だから、作業を全然しない人間、こなしていない人間というのはすぐに把握ができたものだった。我がサークルでは、作業をしない人間に人権は保障されなかった。ぶっちゃけると、作業をしない人間は、会室にいるとめちゃくちゃに冷たく扱われた。会室が狭かったので、作業をする人間のスペースを確保するのが最優先にされたからだ。

 

そんなわけなので、やる気がない人間や、真面目に制作に参加・貢献できないようないい加減な人間は、ここでもまた淘汰されるのであった。

 

私は作画ができるほどの腕がなかったので、消去法的にパソコンで作業する人になった。なので、私はサークルの作業で絵を生成するということはほとんどなかった。それでも、趣味でイラストを描いている同期の様子を見ていたり、漫画家志望の後輩のすごく上手い絵を見たりして、自分でもそういうものを作れたらなと思い始めた。

 

 

コミケに行って、世界が変わった

f:id:hitohira_ipen:20191223123913j:plain

 

サークルではコミケに出展することも活動の一環となっていた。サークルの会長となった私は、「あ、コミケ申し込まなきゃ。でもネットからの申し込みはよく分らないから、申し込みセットを買うためにコミケ行かなきゃ」と思ってコミケに初参戦した。ぶっちゃけ、申し込みセット以外に目当てはなかった。その上、何のサークルがあって、何を出しているのかという情報を全く仕入れていなかった。そもそも眼中にもなかった。

 

コミケは午後から参戦した。午前中は恐ろしいくらいに並んで入れないということを、何度かテレビやネットでその光景を見て学習していた。それに目当てのものも無いから、わざわざ朝早くから出向いても疲れるだけだろうと思った。

 

会場入りをして真っ先に、準備会のブースにて目当ての申し込みセットを購入した。その後は何も買う気は無かったのだが、このまま直帰するのも味気ないなということで、適当に会場内をぶらぶらしてみた。午後なので午前と比較すると、人はそこまで多くはなかったけれど、それでもどこもかしこも人、人、人、といったところだった。コスプレしている人も平気で歩いていた。「本当にコスプレしている人いるんだ」と、若干現実が信じられていないような、夢見心地なことを思った。

 

何だかんだと流れていると、気が付けばセルシスのブースの前にいた。セルシスと言えば、私はクリスタ*1のイメージだった。サークルの面々は、デジタルはほとんどクリスタを使っていると言っていた。それにネットを見渡してみると、クリスタを使っている人は多い印象だった。であれば、自分もクリスタを買ってデジタル絵でもやってみようかなと思って、ソフトを買った。だがソフトだけ持っていても仕方なかったし、マウスで絵が描けようもなかったので、後日wacomのペンタブを購入した。液タブなんて手が出せないので、必然的に板タブ使いになった。

 

そうして私は絵描きとなった。

 

 

創作が命だった日々と、突き付けられる現実

f:id:hitohira_ipen:20200206175302j:plain

 

大学では熱心に勉強していたわけではない。8割方くらいサークルのために行っていたようなものだった。そもそも専攻科目が全然興味なかったので、単位落とさない程度でいいやとさえ思っていた。法律なんて学んだところで、弁護士にも裁判官にも、何にもなる気がなかった。そんなものに興味はなかったし、どうでもよかった。ただ創作をしていることこそが、私には生きがいで、それが命にも等しかったのだから。

 

だから時々、講義はさぼった。自分のやりたいことを欲望のままに優先する学生の手本にして、真面目に勉学に励まない学生の屑であった。それくらいにアニメ制作が好きだった。そこから派生して、イラストも好きになった。

 

私の学生時代はアニメでできていると言っても、恐らく過言ではないと思う。今までの人生で初めて且つ真に打ち込めたものが、アニメ制作という創作活動だったのだから。何ならそのときから、創作で、あるいはクリエイティブな世界で生きていきたいとまで考え始めた。

 

f:id:hitohira_ipen:20191223124120j:plain

 

が、その時は既に大学3年生の冬。否が応でも、迫りくる就職活動について考えざるを得なくなっていた時期でもあった。正直、私は就職活動も、就職それ自体もあまり考えられない人間だった。考えれば考えるたびに憂鬱になった。自分のことなのに両親からもの凄く口うるさく言われたのと、まるで自分に人生の選択権はないような、操り人形にされている感覚と、いつまでも両親の言うことや顔色を窺って、我慢を重ねて生き続けていかなければならないのかと思うと、絶望した。

 

そうしてうつになって、死にたくなった。でも就活はせざるを得なかった。両親から就活する以外の選択肢が与えられなかったし、「就活しないでニートになるのは許さない」「社会に出て働かないのは甘え」といった雰囲気を、やり取りから醸し出されたからだ。主に父方の人間が「いつまでもあると思うな親と金」と言い放ってくるくらいには、育てた子どもにすねをかじられたくなかったのだろうし、何なら社会に出て働くことで育てた恩を返せと思っていたのだろう。貧乏家庭なので、恐らくは子どもの幸せよりもお金が優先されたのである。とにかく、生きることそのものがしんどかった。その頃を思い出すとフラッシュバックが起こって、心臓がバクバクしてくる。

 

f:id:hitohira_ipen:20191223124145j:plain

 

それでも何とか、どうにかクリエイティブな世界に入れないかと思い悩んだ。そんな折、祖母の近所でアニメーターをしているという人の話を聞いた。率直なところ、自分には出来ないなと思った。アニメ業界の凄惨さはニュースやネットで見聞はしていたが、それでもどこか別の世界の話だと目を逸らしていた自分がいた。しかしそれを現実に、具体的には賃金や労働時間などの話を聞いて、幻想が崩れた感じがした。

 

アニメがダメなら、じゃあゲームのほうはどうだろうかと思い始めた。折しも就職活動中だし、まだその時期であったから募集はあるだろうと思って求人を調べた。調べたといっても、新卒用の就活サイトしか見ない程度の、お粗末なものであったが。色々な会社の募集要項などを見ているうちに尻込みしてしまい、ゲーム系の会社の説明会に行ったのは、結局一社だけだった。何の技術も実績も持たない人間がゲームで入れる職種といったら、精々プランナー程度のものだった。それ以外の職種だとバックオフィスでの仕事になり、きっと制作に関わることも無いのだろうと思った。

 

そもそも大学に入ってから趣味で創作を始めて舐め腐っているペーペーと、10代のうちからそういう世界で活躍することを目指して技術などを磨いてきた人間とでは、まるで勝負にならない。ともすれば、何の成果も実績も持ち合わせておらず、努力もしてない自分が技術職を目指すことは、そういう人たちに対して失礼だとさえ思った。もっとも、仮に入り込めたとしても、ろくに教育もされずにいきなり実戦配備されて、心身ともに消耗して遠からぬうちに蒸発して、精神を病む未来を迎えていただろうが。こうしたクリエイティブの業界は、ほとんどが即戦力を求めているわけであって、それはつまり、業界全体として、人員にも資金にも余裕がないということを意味しているのだから。のちの自分のことを考えると、もしも新卒でゲーム業界に入っていたら、本当に死んで、今こうして生きていなかったかもしれない。

 

その後はというと、やっぱり好きなアニメを作ろうとしたり、いっそ就活を辞めて最初からフリーランスでやっていこうとか思ったりした。しかしすぐに折れた。そのことは下記の記事で書いているので、無様な私を拝みたいのであれば読んでみるといいだろう。

 

www.yume-ututu.work

 

www.yume-ututu.work

 

その後、なんやかんやで就活に戻った私は年内滑り込みで就職を決め、何もかもを諦めて「普通」に暮らしていくことを決心したのだった。クリエイティブな世界で生きるのは無理だと、ここで一度悟った。

「もう趣味の範囲でやっていけばいい」「プロにはなれない、自分には無理だ」

イラストや創作に関する当時の思いは、そんなものだった。

 

しかし仕事をするうちに、長時間労働で心身ともに限界に達したことや、代り映えがしなくて、面白くもなければ興味もない仕事をして人生を過ごすことに疑問を感じたことなどが重なって、再びうつになって死にたくなった。このまま仕事をしていたら本当に死ぬ予感がしたし、そうでなくても大変な事態になって、人生単位で後悔をすることになりそうだと直感した。そうして半年もしないうちに退職を決意し、そして半年で退職したのであった。

 

www.yume-ututu.work

 

こうして、私のクリエイティブは1年で2度死んだ。退職をしてから持ち直すも、年末にまた折れて3度死んだ。あと何回、私のクリエイティブは殺されていくのだろうか。

*1:「CLIP SUTUDIO PAINT」の略称。実際はペイントだけでなく、他のソフトも入っていたりする。