皆さんは、生きていく中でふとした時に、何か妙な違和感だったり生きづらさだったりを感じることはありませんか?
私は、結構あります。
大学生時代の就職活動の時期、就職して会社で働いて、そして辞めていった中で、何だか自分の認識や価値観などが世間一般の人たちとズレているような気ががして、生きづらさや苦しさを感じました。
このもやもやした、上手く言葉にできない私の中の感覚を、どうやったら自分の中で整理できて誰かに伝えられるくらいの形にすることができるかと、随分と悩んでいました。
そんな中、ふと出会ったのが、「レンタルなんもしない人」(以下、当記事ではレンタルさんとさせていただきます)という方が書かれた本になります。
調べてみると、いくつか本を出しているようですが、私が読んだのは『〈レンタルなんもしない人〉というサービスを始めます。』というタイトルの本です。
副題として、『スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと』とある通り、レンタルさんが「なんもしない」というサービスをするにあたって、そこに至る経緯やものの考え方、捉え方などが記述されています。
この本に記載されている、レンタルさんの考え方について、私は大いに共感できる部分が多々ありまして、自分の中にくすぶっているもやもやした違和感が、すっきりとしたように感じられました。
共感できる部分すべてを紹介してしまうと、とても長くなってしまいますし、ある意味では本の内容の「ネタばれ」になってしまいますので、いくつかをかいつまんで、また私の感想なども絡めまして紹介させていただきます。
- 「誰かから何かを期待されること、それ自体がストレス」
- 「人に悩みを相談すること=その人に弱みを握られるということ」
- 「お金はいったん脇に置く」
- 「『好き』をアピールすることで自分を飾っているようにも見えてしまう」
- まとめ
「誰かから何かを期待されること、それ自体がストレス」
まず初めにこのような記述に、私は大いに共感しました。
私自身、学生時代はそれなりに勉強できる人間でかつ真面目な人間したので、周りから「優秀」と見なされて、「あなたならできる」という期待を知らず知らずのうちに寄せられていたように思います。
それが、期待を私に寄せてきていた相手が、その人の中で定められた水準の期待値を超えられないと、「期待していたのに、がっかりだよ」とか、「あなたほどの優秀な人間が、どうして」といったような反応をされるのが、私には堪られませんでした。
元々他人から期待されるのが嫌だったと聞かれれば、そうではありませんでした。
誰かの期待に応えれば、少なくともその人の役には立った、イコール自分が必要とされるのだということですから、自分がここにいてもいいんだと承認されている感じがあって、それで初めて自分の存在が認められるような気がしていました。
しかし、就職活動を境に他人の期待に応えるのがつらくなりました。他人の期待を背負うのが重くなりました。
周りの人間、私の場合は家族だったのですが、まあそれなりの大学にいっていたということで、きっといいところに就職するだろうという期待をされていたのだと思います。
加えて、私には兄がいるのですが、兄は就職活動であまり活動をしなくて、深く考えないで就職して一度実家を出ていったのですが、一年経たずして仕事を辞めて実家に戻ってきて転職したということがありました。
そういう「前例」があったものですから、次に就職活動をする私は上手くやってくれると期待もあったかもしれません。
しかしそれは、ややもすれば「失敗してくれるなよ」というプレッシャーじみたもののように感じられて、すごく重くて、すごく苦しかったです。
その重圧に私は耐えられなくなって、心を病んで、人生で初めてのどん底を味わいました。
もしそのときにこの本を読んでいたなら、また違っていたかもしれません。もっとも、出版年月日から考えるとそれはあり得ないことではありますが…。
期待されるのがストレスであるなら、最初から期待されなければいいということも、レンタルさんはこの本の中で書いていました。
「なんもしない」から、最初から期待されないし、されたとしても期待の水準は低い。
なるほど、ファーストインプレッションで自分のことを変な人だと思わせることで、相手の期待のハードルを下げて超えやすくするという方法があるのかと、目から鱗が落ちました。
そもそも私が思うこととしては、期待なんてものは相手方が「勝手に」してくるものでありますから、本来的にはそれに応えるなんていう必要はないのでしょう。
よく「期待を裏切られた」なんて言いますが、別にこちらは最初から裏切ってなどおらず、そちら側が勝手にそう思い込んでいるだけということなのでしょう。
相手の自己完結的な思考の中に、私という存在が勝手に組み込まれ、巻き込まれる。
そう考えると、「期待」っていい迷惑です。
「人に悩みを相談すること=その人に弱みを握られるということ」
レンタルさんは人に悩みを相談するということは、その人に弱みを握られるということだという持論を展開されていまして、それが非常に共感できましたので、一部抜粋して紹介させていただきます。
「誰かに悩みを相談するということは、おおげさにいえばその人に弱みを握られることになると思っている。」
「親しい人、つまり過去から現在に至るあいだに人間関係が構築出来ていて、その関係が未来においても継続すると予想される相手に悩みを相談したなら、それ以降ずっと自分の弱みを握られ続けることになるのだ。」
「相手が好ましくない存在に変わったとき、弱みを握られているだけ自分は不利になる」
生きるのが苦しい時に、どうして家族には悩みが言えなくて、ツイッターなどの親しい人がいない場では悩みが言えたのだろうかと不思議に感じていました。
「人に悩みを相談すること=その人に弱みを握られること」…そうか、そういうことだったんだと、この言葉がすっと、どこにも引っかかることなく自分の中に入っていくなんて予想だにしていませんでした。
距離の近い人間だから、敵になったときのことを思うと迂闊に弱点をさらけ出せないというのは、確かにあるなと思いました。
それだけではなく、レンタルさんは「話を聞いてほしい」という依頼を通じて、ご自身のことを「誰にもいえない、だけど一人では抱えられない話を語る対象」だと分析していました。
きっと、関係性のない赤の他人だからこそ、気兼ねなく話ができるのだし、悩みを打ち明けることができるのでしょう。
また、「関係が固定されてしまうと、それに伴う息苦しさも生じてくるんじゃないか。」ということも記述していました。
近づきすぎず、かといって離れすぎないという距離感が、もしかしたら一番心地良いのかもしれないのかもしれませんね。
「お金はいったん脇に置く」
こちらもまずはレンタルさんの記述を紹介させていただきます。
「ストレスなく生きていくために求めていたはずが、かえってストレスを抱える要因になるという本末転倒を起こしかねない。だからお金はいったん脇に置く。」
「お金というわかりやすい価値尺度をいったん手放すことで、お金を介在させた既存のサービスにはない多種多様な価値観にもとづいた多種多様な関係性が生まれるのではないか。」
現代を生きる私たちにとって、お金はある意味で生命線だと言えます。
サービスを受けるのにも、何かを買うのにも、もちろん生活していくのにもお金はかかりますから、みんなお金のことを第一に考えてしまって柔軟な発想ができなくなるのでしょうし、お金に縛られているから苦しくなってしまうのだと思います。
実際、私もお金のために仕事は続けなければならないと考えていた時期がありまして、そのときは同時に仕事が色々と辛くて辞めたいと悩んでいたものですから、もの凄い葛藤が生じました。
ですが、現実としては私は会社を退職することを選びました。
その選択をした理由の中には、お金のことなどありませんでした。お金を理由にしていては、私が本当に進みたい道へ行くことが出来ないので、度外視していました。
というよりは、死ぬ前に好きなこと・やりたいことやってから死にたいという願望が強かったといった方が、私の場合は正しいのかもしれません。
もしも、私がずっとお金のことを気にしていたら、苦しい労働条件の仕事を、苦しいつらいと感じながらも続けていたのかもしれません。それこそ、心身ともに尽き果てて壊れて再起不能になって、後悔するまでやっていたのかもしれません。
仕事とお金に関して、もう一つ私が違和感を感じていたことがあります。
それは、私の職場が人件費を削ることや売り上げ予算を達成すること、ひいては利益を出すことにひどく固執しているように思えたことです。
会社というのは慈善団体ではありませんから、利益を出してなんぼということは承知しています。
ですが私には、そういうのはお金に縛られた働き方に見えて、どことなく窮屈さを感じずにはいられませんでした。
人件費や売上予算などというお金による価値尺度に会社全体が縛られているように感じて、そういう働き方で本当に生き生きと自分が働けるのかと考えたら、答えは「ノー」でした。
私の会社は一応「お客様第一主義」ということでやっているのですが、正直なところ、お金に縛られた考えから脱却しない限りは、その理想は実現しないだろうと思っています。(もっとも、「お客様第一主義」というのも、私としては自分を犠牲にしてでも他人に尽くせという感じがして、これはこれで違和感があるのですが。)
「『好き』をアピールすることで自分を飾っているようにも見えてしまう」
共感したものばかりではなく、あえて「これは違うな」と思ったものを一つだけ紹介しておきます。
「『なにが好きか』で自分語りをする人の話はどこか漠然としていてつまらないことが多いし、『好き』をアピールすることで自分を飾っているようにも見える。」
「『なにが嫌いか』をはっきり言える人のほうが、話が具体的で面白いし、たぶんその人は正直だ。あるいは誠実といってもいいんじゃないか。」
確かに、嫌いなものをはっきりと言える人は正直なのだということには、ある程度共感はできます。
ですが、私は嫌いなものの話をされても、面白いとは思いません。
嫌いなものを語る人から感じられるのは、マイナスでネガティブな感情のものが多いですから、段々と聞かされているこちらが参ってきてしまいます。
人間の暗く醜い部分というのは、触れれば触れた分だけ色んなエネルギーを削いでいくものですから、面白いから触れようとは私は思いません。
反対に、私としては好きで語っている人の方が、話が面白いと思います。そういう人たちというのは、生き生きとしていて、話しているこちらも意欲が湧くような、そういうエネルギーをくれるように思います。
好きなものを好きと言うことも、自分を飾っているとは思いません。むしろありのままの自分をさらけ出しているように感じます。
先ほど、嫌いなものをはっきりと言える人は正直だということには共感できると述べましたが、好きなものを語るのも、自分に正直だと言えるのではないでしょうか。
まあ、私はクリエイター気質で、好きなものをとことん突き詰めるところがありますからこういう考えになるのでしょうし、レンタルさんはレンタルさんでまた違った気質をお持ちであるがゆえに、そうした考えになるのでしょう。
ですから、私としてはレンタルさんの考えを否定しようなどという気はありません。
住む世界が違えば、考え方というのも変わってくるものですからね。
それこそ、多種多様な価値観にもとづいた多種多様な関係性があってもいいのだと思います。
まとめ
世の中には、変わった考えをしている人が本当にいるんだと知ることができた一冊でした。
それでいて、私が生きている中で感じとった生きづらさや世間とのズレ、もやもやした違和感が、はっきりとした形になって捉えることができました。
ずっと心の中にあった霧が、ようやく晴れたような感覚がして、読み終わってからすっきりした気分になれました。
生きている中で、どこか息苦しさや違和感などがある方に、ぜひ読んでいただきたいです。